最近またプロレスが日常に戻りつつある。
毎週金曜夜にBSのワールドプロレスリターンズを観られるので親日の試合も後追いながらしっかりと観られるし、時間があれば後楽園当たりへ当日券で突入しているのだけど、やっぱりプロレスって面白いな、と思うのである。
最近少しブーム的になりつつあるとはいえ、やはりまだまだ批判的(もはや中傷の域だが)な意見もあるのはあるけど、それでもやっぱりプロレス独特の間(ま)だったりとか、空気感というのは何ともいえず良いのである。
会場で観るとそれはひしひしと伝わるから、やっぱりプロレスはライブなんだよね。
と、言う訳で今日はプロレス的な間について考えてみようと企てている訳である。
そもそも間ってなんだ?という話なのだけど、実はこの間ってすごく日本的な概念だと思うのですね。
侘び寂びという概念がある訳だけど、それに通じるものが間である。
基本的にガチャガチャしたものを好む欧米人に比べて、日本に置ける音の根本は自然の中にある。
風に揺れる葉の摩擦音や、虫の音と言ったものが日本の音だと思う。
これらは全て自然の音だから、鳴ったり鳴らなかったりは不規則なのだけどそこはかとなく調和して、キチンと季節の音を奏でているものである。
この音と音の間に間はあるのである。
この間は音がない状態なのだけど、これがあるからこそ音が際立つ訳だ。
ではプロレスに置ける間とは何か、と問うたらば、言わずもがな、選手が向かい合ってにらみ合っている間、わざと技のつなぎの間など、つまり試合がどう動くかという固唾を飲み込むまさにその瞬間の演出である。
ハイスパートな試合はそれはそれで刺激的で面白いところもあるから否定はしない。
しかし、やっぱり10分20分と試合するプロレスにおいては、他の格闘技のようにとにかく倒せば良いのだ、という価値観はそもそもない。
試合の中で相手の良さも引き出しつつ、攻防を見せる中でいかに納得感も含めて演出するかが重要なのである。
だからプロレスは頭の悪い奴にはできないのである。
テレビではわかりやすい技の応酬などを編集して放送する場合が多いから、どうしてもこの間を感じることは難しい。
故に会場でこそ観るべきなのである。
試合開始してすぐに動き出す場合もあれば、しばらく見合って手も合わせないことがプロレスではしばしばある。
それをちんたらしやがって、などと思っている内はまだプロレスを楽しんでいるとは言えない。
そう言った間があるからこそ、次に何をやるんだ?という想像が膨らむ訳だし、あれこれ考えられる余白があるからよりプロレスを知ろうというマインドにファンもなる訳だ。
余談だが、野次が面白いのもこの間があるからこそだと思う。
間を置いてからの次の展開は皆が固唾を呑んで見守るが故に期待と失望が入り交じるのである。
そこにこそプロレスラーの力量が試される。
考えてみれば、日本のプロレスが世界最高水準と言われる一つの所以はこうした間の概念が染み付いているが故かもしれない。
格闘技とはいえエンタメの要素も色濃いプロレスである。
その楽しみを演出する手段として間はやっぱり重要なんですよ。
音楽で考えても、ユーロビートで喜んでいるのはアホのヤンキーくらいのものでしょう。
Zazen Boysの音楽のあの間を生むのは頭が良くないと出来ないからね。
最近ブームとなっているからそれに乗っかって何となく楽しいんでいるだけの人もたくさんいるのだろうし、それはそれで良いと思うけど、一歩引いてそうした視点で選手の動きを見ると、また違った見え方がするはずである。
武藤が何故天才と呼ばれるのか、あの少ない技で何故試合が成立できてしまうのか、その一旦は何より間の使い方にあるのである。
一流のレスラー須くこの間の使い方がうまい。
逆に新人レスラーや、どんなにアクロバティックな動きが出来ても単調に感じる選手はこの間の使い方が成っていないのだ。
その楽しみを感じる為にも、やっぱり生で観てほしいよね、プロレスは。