先週新日本プロレスの夏の祭典、G1が終わった。
今年は内藤とケニーが決勝を争い、内藤が優勝となった。
ここ数年は週プロで結果を追いかけるだけだったのだけど、今年は誘ってくれる人があったので久しぶりに両国で観戦した。
新日本プロレス自体、最近はチケットも取りづらいので久しぶりだったけど、会場はほぼ満席、チケットはソールドアウトしたらしいが、若干空席があったのは都合だろうか。
熱気もすごいし、会場にはグッズを身につけた熱心なファンがたくさんいた。
今回一緒に行ったのは会社の人なんだけど、もともと一緒に行く予定だった人が行けなくなったということで誘ってくれて、初めましての人たちと見たんだけど、彼らと話していて今の新日本のファンの人がどんな人かもわかってそれも面白かった。
ある意味で冷めた視点というか、素直にエンターテインメントとして楽しんでいるのである。
会話の内容も、誰が勝ったほうが今後こういうストーリーになるからこうなって面白い、と言った感じで、その意味ではとても健全なプロレスファンだ。
でも会場では選手の名前を大声で叫んで応援して、贔屓の選手のタオルを振り回して、その選手が勝てば喜んで、負ければ凹むという。
私の友人のプロレスファンも私も少しひねくれているので、こういう感じのファンの人と話すのはちょっと新鮮だった。
多分多くのファンががそんな感じなので、いいファンがついたよね。
ちなみに見に行ったのは予選最終日だったんだけど、試合のクオリティはさすがだよね。
だけど、ちょっとあっさりしている試合もあって、もう少し泥臭いほうが個人的にはやっぱり好きだ、とか思ったり。
なお、最終日には柴田も姿を現したようで、とりあえず自分の足で歩いている姿は嬉しかったね。
ところで、こういうイベントの後はニュースも出るんだけど、相変わらず八百長とか台本とかいう人がいて、飽きないものかなと逆に感心してしまう。
猪木も馬場も前田も永田も棚橋も中邑も柴田も、レスラーの側でそんなことを言ったのはせいぜい高田くらいじゃないかと思う。
そんな議論は誰もしていない。
彼らが言うのはプロレスはプロレスであると言うだけだ。
だって、プロレスは最初からプロレスでしかないではないか、という話だ。
しかし、なぜそんな話がされるようになったのかと言うと、考えて見たら多分暴露本の存在のせいだろうと思う。
それと、積極的にプロレスの格闘技的なイメージを守ろうとした行動が裏目に出たように思う。
でも、ルール違えばそりゃ勝手も違うから、プロレスラーが弱いわけではないんだけどね。
プロレスってのは奥が深いと良く言われる。
その理由って、結局曖昧な部分もあるし、計算されたところもあるし、リアルもあればフェイクもある。
でも総じて表現されるものが単純な身体的技術の競争だけじゃなくて、価値観だったり哲学だったり、いろんな側面で見せられる要素がある。
どんなにヨボヨボになっても、入場テーマが鳴って入場して来たらテンションが上がってしまう。
それがプロレスにおけるスターである。
素直に見てもひねくれて見ても、どっちにしても結構面白いと思うんですよ、プロレスって。
馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいけど、そのバカバカしさも含めて楽しんで見たらって、思うよね。
そういうファンからすると、ミスター高橋とかが暴露本とか言って出したのは、やっぱり歓迎できない。
そういうのがプロレスを貶めているんだなと思う。